เข้าสู่ระบบ「……上げて」
掠れた声は、階段下の暗闇から聞こえた。
男とも女とも判別できない。喉を潰した人間が、長いあいだ声を出さずにいたあと、無理に息を押し出したような音だった。
五人は動かなかった。
朔が十二段目へ膝をつき、懐中電灯を空洞へ向ける。
白い光が、壁面をゆっくり滑った。
深さは五メートルほど。
底には使われなくなった机や椅子が乱雑に積まれていた。錆びた金属脚が絡み合い、崩れた木製の天板が斜めに立っている。古い配管が壁に沿って下り、底には雨水らしい黒い水が薄く溜まっていた。
人影はない。
「誰かいるのか!」
悠斗が叫んだ。
返事はなかった。
先ほどまで聞こえていた爪の音さえ消えている。
「空耳……?」
奈々香が美月の腕を掴んだ。
「五人とも聞いた」
美月は空洞から目を離さない。
「少なくとも、私には聞こえた」
澪も頷きかけた。
そのとき。
朽ちた椅子の隙間で、白いものが動いた。
細い指。
血の気のない小さな手が、折れた机の陰から一瞬だけ伸びたように見えた。
「待って」
澪が一歩前へ出る。
「今、手が」
「何?」
「下に誰かいる」
朔が光を戻す。
椅子の隙間。
何もない。
「澪、離れて」
美月が肩へ触れた。
「人がいるなら救助が必要。でも、まず安全を確認する。五メートルはある。下の床が抜けている可能性も――」
「私が下りる」
「駄目」
「誰かがいるかもしれない」
「だからこそ一人では下りない」
美月は強く言った。
「さっき悠斗が落ちかけたばかりでしょう」
澪は空洞を見下ろした。
声。
白い手。
そして、耳の奥に蘇る八年前の澄花。
『澪ちゃん。開けて』
助けを求める声を聞いた。
それなのに逃げた。
今度も同じことをしたら。
「途中まででいい」
澪は朔を見る。
「ロープをつけて。何かあったらすぐ引き上げて」
「俺が行く」
「朔じゃ駄目」
「理由は」
「私が見たから」
澪の声が僅かに震えた。
「白い手を見たのは私。もしまた、私にしか見えてないものなら……私が確かめる」
朔は数秒黙った。
反対したのは美月だった。
「危険すぎる」
「でも、人がいるなら」
「救助する側まで落ちたら意味がない」
「分かってる」
澪は自分の腰へ手を当てた。
「だからロープを使う」
朔は空洞と澪を交互に見た。
やがて、悠斗に使った補助ロープを取り出す。
「勝手に底まで行くな」
「うん」
「途中で声が聞こえても、誰かが見えても、ロープを外すな」
「分かった」
「俺が二回引いたら止まれ。三回で戻る」
朔は澪の腰へロープを二重に巻き、安全具へ通した。
結び目を一度作り、指で引き、もう一度確かめる。
澪はその手元を見つめた。
正確で、迷いがない。
その動きを信頼したいと思う自分と、音楽室の楽譜に書かれていた一文が同時に胸の中へ存在していた。
朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。
「足を掛ける場所を選べ」
朔の声で我に返る。
空洞の側面には、点検用らしい古い金具が幾つか残っていた。
澪は十二段目の下へ身体を滑らせる。
靴底を最初の金具へ置く。
冷たい湿気が顔へ上がってきた。
「ゆっくり」
美月が上から言う。
澪は一段ずつ下りた。
一メートル。
二メートル。
光が遠くなる。
壁の近くまで顔を寄せたとき、無数の細い傷が見えた。
「朔」
「どうした」
「壁に傷がある」
懐中電灯を近づける。
縦に長い線。
斜めに交差した跡。
金属工具で削ったものとは違う。
爪。
人間の指で、何度も壁を掻いたような傷だった。
古いものは黒ずみ、縁へ埃が詰まっている。
しかし、その中に白く新しいものが混じっていた。
削れたコンクリートの粉が、まだ床へ落ちきっていない。
「最近ついた傷もある」
澪が言う。
上で奈々香が息を呑んだ。
「誰か、本当に下にいたの?」
澪はさらに降りる。
ロープが腰へ食い込む。
底へ近づくほど、錆と湿った布の臭いが強くなった。
最後の足場から飛び降りることはせず、朔に合図してロープを少し緩めてもらう。
靴底が床へ触れた。
黒い水が薄く跳ねる。
「着いた」
「その場から離れるな」
朔の声が上から降る。
澪は懐中電灯を動かした。
積み上げられた机。
壊れた椅子。
古い掃除用具。
人はいない。
白い手もない。
代わりに、椅子の脚の下へ白い布のようなものが見えた。
澪は一歩近づいた。
「待て」
朔が上から言う。
「何がある」
「靴」
朽ちた上履きが一足、並べられるように落ちていた。
泥に汚れ、白かった布地は黄ばんでいる。
片方の甲に、古い赤黒い染みがある。
澪はしゃがみ込んだ。
直接触れず、懐中電灯を内側へ向ける。
油性ペンで名前が書かれていた。
椎名。
澪の呼吸が止まった。
「澄花の」
上が静かになる。
「何?」
悠斗の声が降ってくる。
「上履き。内側に椎名って書いてある」
「そんなはずない」
即答だった。
「澄花は階段から落ちてない」
悠斗の声が強くなる。
「俺も見てた。消えたのは理科準備室の近くだ。階段じゃない」
澪にも同じ記憶がある。
澄花の声を最後に聞いた場所。
閉じた理科準備室。
八年前、この空洞へ来た記憶はない。
「持って上がる」
澪は証拠用の袋を取り出し、上履きを片方ずつ入れた。
そのとき、片方の踵から乾いた黒い欠片が剥がれた。
血のように見える。
上へ戻り、美月が簡易検査をした。
救急用品の中から検査用の小さな試薬を取り出し、綿棒へ付着物を採る。
数十秒。
美月の眉が寄った。
「人の血液に反応する成分が含まれている可能性が高い」
「澄花の?」
奈々香が訊く。
「そこまでは分からない。正式に調べないと」
「でも、何でここにあるんだよ」
悠斗が苛立ったように空洞を見下ろした。
「八年前、澄花がここへ来てないなら、誰かがあとから持ってきたことになる」
「それとも」
澪が言った。
「私たちが知らない間に、澄花がここへ来た」
悠斗の顔が強張った。
事件後も澄花が生きていた可能性。
透が聞いた音声。
捜索が始まった朝にも、彼女の声が録音されていた。
理科準備室から別の場所へ移されたのなら。
「下に通路がある」
朔の声が落ちた。
彼は空洞の壁際を懐中電灯で照らしている。
積み上げられた机の奥。
金属製の扉が半分隠れていた。
五人で机と椅子を一つずつ動かす。
扉は人が屈んで通れる程度の高さしかない。
表面には設備管理用と刻まれた小さな札。
外側から南京錠が掛かっていた。
「これ、図面の通路だ」
美月が言った。
朔が鍵穴を照らす。
古い錠前。
だが、鍵穴の周囲には銀色の傷が幾つもついている。
錆の上から削られているため、傷は新しい。
「最近開けられてる」
朔が言う。
悠斗が共通鍵を取り出した。
「試す」
数本を順番に差す。
どれも奥まで入らない。
「違う鍵だ」
「壊せる?」
美月が訊く。
「時間を掛ければ」
朔は工具を取り出した。
金属用の小型切断具を南京錠へ噛ませる。
悠斗が支え、二人で何度も力を加える。
金属が軋む。
やがて錠の一部が割れた。
扉を開く。
湿った冷気が流れ出した。
澪は思わず一歩下がった。
細い通路。
両側は剥き出しのコンクリートで、天井も低い。人一人が横を向かずに歩ける程度の幅しかない。
だが、壁には新しい配線が束になって伸びていた。
赤。
黒。
白。
通信線。
電源線。
途中には小型の中継器や制御装置が一定間隔で固定されている。
「これ……全部?」
奈々香が呟く。
「今夜の装置につながってる可能性が高い」
朔は一本の線を追った。
ケーブルの外皮へ製造年月が印刷されている。
別の線も確認する。
「八年前のものじゃない」
「いつ?」
「古いものでも三年前。こっちは二年前。新しい線は去年製造されてる」
「じゃあ、八年前から仕掛けられてたんじゃないの?」
澪が訊く。
「少なくとも、この配線は違う」
朔は通路の奥を見る。
「誰かが、あとから校舎を改造した」
「何のために」
奈々香の問いへ、誰もすぐには答えなかった。
朔の懐中電灯が、壁の一部で止まる。
そこに写真が貼られていた。
一枚ではない。
十枚。
二十枚。
通路の壁一面に、印刷された写真が並んでいる。
美月が病院へ入るところ。
白衣ではなく私服で、職員用入口へ向かっている。
奈々香が配信中の店から出てくる姿。
カメラへ笑顔を向けていない、油断した横顔。
悠斗が会社の建物を出て、車へ向かうところ。
澪が取材先の事故物件へ入る瞬間。
写真には日付が記録されている。
三か月前。
四か月前。
半年前。
「ずっと見られてた……」
奈々香が口元を覆った。
美月は写真を一枚ずつ確認している。
「これ、病院の職員しか使わない裏口」
「俺の会社も」
悠斗が低く言う。
「表からじゃ撮れない位置だ」
澪は自分の写真を見つめた。
知らないうちに背後から撮られている。
取材先。
自宅近くのコンビニ。
駅。
数か月前から、誰かが生活を追っていた。
六人を廃校へ集めるより、ずっと前から。
「朔のは?」
奈々香が壁を探す。
数枚先で手が止まった。
「あった」
澪も見る。
神代朔。
窓辺に立っている。
黒いシャツ姿で、片手にカップを持ち、外を見ている。
背後には暗い室内。
棚。
机。
撮影機材。
澪は違和感に気づいた。
「これ、外からじゃない」
朔が写真を外した。
構図を確認する。
窓の外が、朔の背後に映っている。
撮影位置は室内。
廊下か、隣の部屋。
朔の自宅の中から撮られている。
奈々香の呼吸が速くなる。
「誰かが家に入ったってこと?」
「そうなる」
朔は表情を変えない。
「鍵を壊されたことは?」
「ない」
「盗まれたものは?」
「気づいた範囲では」
奈々香は写真と朔を交互に見た。
「それとも、自分で撮ったんじゃないの?」
通路が静まり返る。
悠斗も美月も、朔を見る。
澪は胸元の手帳へ触れた。
澄花の一文が、また重くなる。
朔は奈々香から目を逸らさなかった。
答えようと唇を開く。
その前に。
通路の奥から、水の流れる音がした。
さらさら。
細い川がコンクリートの上を流れるような音。
全員が振り返る。
朔の懐中電灯が奥を照らす。
何十メートルも先で通路が曲がっている。
床へ水が広がっていた。
その水面を、濡れた上履きが踏む。
ぺたり。
誰も見えない。
ぺたり。
足音だけが近づく。
次に、女子生徒の笑い声がした。
一人。
少し遅れて、もう一人。
少女たちが廊下の奥で、秘密を共有するように笑っている。
壁へ赤いものが滲んだ。
一本の矢印。
通路の奥を指している。
その下へ、文字が一つずつ浮かぶ。
五つ目
三階女子トイレ 四番目の個室奈々香が声を震わせた。
「三階って……また上に戻るの?」
その問いへ答えるように、濡れた女子生徒の笑い声が今度は五人の背後から聞こえた。
黒い水は、奈々香の膝を越えていた。「早く! もう腰まで来る!」 四番目の個室の内側から、奈々香が扉を叩く。 狭い木板が衝撃を受け、鈍い音を繰り返した。 ばたん。 ばたん。 その合間にも、水の流れる音が大きくなる。 ごぼ、ごぼ、と水洗タンクの奥で空気が泡立ち、黒い液体が床へ溢れている。 澪は扉へ両手をついた。「奈々香、もう少しだけ待って!」「無理! 冷たい! 足が動かない!」 奈々香の声は泣き崩れていた。 先ほどまでは足首ほどだったはずの水位が、数十秒で腰近くまで上がっている。 澪は床を見た。 個室の外は乾いている。 扉の下には数センチの隙間があるのに、黒い水は一滴も漏れてこない。「おかしい」 美月も同じ場所を見ていた。「これだけ溜まれば、下から流れ出るはず」 古い女子トイレには排水口がある。 しかも、増設された四番目の個室の床にも、小さな排水穴が見えていた。 完全に塞がれていたとしても、腰まで水を溜めるには相当な量が必要になる。 この狭い空間に、その水がどこから供給されているのか。「朔!」 悠斗が叫ぶ。「錠はまだか!」「外から外す」 朔は電磁錠を諦め、個室の側壁へ懐中電灯を当てていた。 増設された木板の継ぎ目。 外側から古く見せるため、表面には汚し塗装が施されている。 しかし、板そのものは新しい。 朔は工具の先端を継ぎ目へ差し込んだ。「悠斗、ここを押さえろ」 二人で板をこじる。 最初はびくともしない。 悠斗が肩を押しつけ、朔が工具をさらに深く差し込む。 みし。 木材が裂ける。 内側で奈々香が悲鳴を上げた。「何か、いる!」 澪の背中が凍る。「何が?」「鏡に……後ろに……澄花が!」「鏡を見ないで!」 美月が叫ぶ。「正面の扉だけ見て! 私たちの声を聞いて!」「無理! 耳元で喋ってる!」「何て?」 奈々香の返事は、水を蹴る音に掻き消された。 ばしゃん。 ばしゃん。「腰まで来た! お願い、開けて!」 八年前。 理科準備室の扉を叩く声が、澪の耳の奥で重なった。『澪ちゃん、開けて!』 掌の古傷が疼く。 あのときは逃げた。 煙。 火災警報。 男の声。『もう助からない』 そして、自分は扉を離れた。「今度は絶対に置いていかない」 澪は呟いた。「何?」 美
三階女子トイレには、三つしか個室がなかった。 八年前も同じだった。 澪は入口に立ったまま、右から順番に扉を数えた。 一つ。 二つ。 三つ。 薄い水色の扉はどれも塗装が剥げ、下端には湿気で膨らんだ木が黒く浮いている。床の白いタイルはところどころ割れ、洗面台の蛇口には赤錆が厚くこびりついていた。 五つ目の印が示した場所。 三階女子トイレ、四番目の個室。 だが、どれほど見ても四つ目はない。「間違ってるんじゃないの」 奈々香が入口から動かずに言った。 声には期待が混じっていた。「四番目なんてない。これなら、行き先そのものが嘘だったってことでしょ」 誰もすぐには答えなかった。 奥の小窓から雨の青白い光が差し込んでいる。天井灯は死んでおり、五人の懐中電灯だけが便器の白や配管の錆を拾っていた。 美月が三つの個室を一つずつ開く。 一番目。 空。 二番目。 便座が外され、床へ転がっている。 三番目。 天井から蜘蛛の巣が垂れているだけ。「壁の奥に設備室がある可能性は?」 美月が尋ねる。 悠斗が通路図を広げた。「女子トイレの裏は配管スペース。さっきの管理通路とつながってる。ただ、ここから直接入れる入口は載ってない」「載っていない入口ばかりだな」 朔が壁を照らす。 そのとき、澪は入口脇の鏡を見た。 長い洗面台の上に設置された横長の鏡。 表面は黒い斑点に侵され、中央には縦へ亀裂が走っている。 鏡の中に、四つの扉が映っていた。 澪は呼吸を止めた。「……ある」「何が?」 美月が振り返る。「鏡」 澪は指を向ける。「四つある」 全員が鏡を見た。 現実の背後には三つ。 鏡の中には四つ。 三番目の右隣。 本来なら灰色の壁しかない場所に、もう一枚、薄い水色の扉が立っている。 表面には黒い数字で〈4〉。 奈々香の顔色が変わった。「いや」 短い声だった。 壁へ背をつける。「奈々香?」「そこ……」 鏡の四番目の扉を見たまま、奈々香の唇が震える。「八年前も、あった」 悠斗が彼女を見る。「四つ目が?」「見えたわけじゃない。でも、澄花が言ってた」 奈々香は左耳に残ったガーゼへ触れた。「四つ目があるって。私、馬鹿にした。三つしかないじゃんって」 記憶が戻ったのか、声が次第に細くなる。「それから……
「……上げて」 掠れた声は、階段下の暗闇から聞こえた。 男とも女とも判別できない。喉を潰した人間が、長いあいだ声を出さずにいたあと、無理に息を押し出したような音だった。 五人は動かなかった。 朔が十二段目へ膝をつき、懐中電灯を空洞へ向ける。 白い光が、壁面をゆっくり滑った。 深さは五メートルほど。 底には使われなくなった机や椅子が乱雑に積まれていた。錆びた金属脚が絡み合い、崩れた木製の天板が斜めに立っている。古い配管が壁に沿って下り、底には雨水らしい黒い水が薄く溜まっていた。 人影はない。「誰かいるのか!」 悠斗が叫んだ。 返事はなかった。 先ほどまで聞こえていた爪の音さえ消えている。「空耳……?」 奈々香が美月の腕を掴んだ。「五人とも聞いた」 美月は空洞から目を離さない。「少なくとも、私には聞こえた」 澪も頷きかけた。 そのとき。 朽ちた椅子の隙間で、白いものが動いた。 細い指。 血の気のない小さな手が、折れた机の陰から一瞬だけ伸びたように見えた。「待って」 澪が一歩前へ出る。「今、手が」「何?」「下に誰かいる」 朔が光を戻す。 椅子の隙間。 何もない。「澪、離れて」 美月が肩へ触れた。「人がいるなら救助が必要。でも、まず安全を確認する。五メートルはある。下の床が抜けている可能性も――」「私が下りる」「駄目」「誰かがいるかもしれない」「だからこそ一人では下りない」 美月は強く言った。「さっき悠斗が落ちかけたばかりでしょう」 澪は空洞を見下ろした。 声。 白い手。 そして、耳の奥に蘇る八年前の澄花。『澪ちゃん。開けて』 助けを求める声を聞いた。 それなのに逃げた。 今度も同じことをしたら。「途中まででいい」 澪は朔を見る。「ロープをつけて。何かあったらすぐ引き上げて」「俺が行く」「朔じゃ駄目」「理由は」「私が見たから」 澪の声が僅かに震えた。「白い手を見たのは私。もしまた、私にしか見えてないものなら……私が確かめる」 朔は数秒黙った。 反対したのは美月だった。「危険すぎる」「でも、人がいるなら」「救助する側まで落ちたら意味がない」「分かってる」 澪は自分の腰へ手を当てた。「だからロープを使う」 朔は空洞と澪を交互に見た。 やがて、悠斗
少女が「十三」と数えた直後、東棟の照明がすべて消えた。 暗闇は一瞬だった。 それでも澪には、その短いあいだに誰かが階段を一段上ったように聞こえた。 こつ。 硬い上履きの底が、木の踏み板へ触れる音。 続いて蛍光灯が白く明滅した。 十二段しかないはずの階段の最上部に、もう一段増えていた。「……何、あれ」 奈々香が美月の袖を握る。 誰も答えなかった。 澪は階段を見上げた。 一階から踊り場まで、十二段。 八年前にも上った。今夜も何度も通った。幅の狭い古い階段で、七段目だけ踏むと軋む。十一段目には大きな欠けがあり、十二段目を越えれば踊り場へ出る。 その十二段目の上に、見覚えのない黒い踏み板があった。 十三段目。 しかも、その先に廊下が続いている。 三階へ上がる階段ではない。 踊り場の壁がなくなり、さらに上の階へ向かう長い廊下が伸びていた。 薄暗い窓。 左右へ並ぶ教室の扉。 天井から垂れる蛍光灯。 突き当たりの壁だけが、霧の中へ溶けるように見えない。「四階……?」 美月が呟く。「ない」 悠斗が即座に否定した。 声がひどく乾いている。「この校舎は三階建てだ」「図面にも?」 澪が訊く。「ない。屋上の設備室ならあるが、人が歩ける階じゃない」 朔は階段へ近づかず、小型カメラを構えた。「全員、その場から動くな」 液晶に十三段目と四階らしき廊下が映っている。 今度は、カメラにも存在していた。 朔は角度を変えた。 正面から。 壁際から。 床近くから。 どの角度でも、十三段目はある。 突然、照明が消えた。「動かないで!」 美月の声。 数秒後、明かりが戻る。 十三段目は消えていた。 その先の四階もない。 十二段目の先には、いつもの踊り場の壁がある。 奈々香が息を呑む。「今、なかった」「ああ」 朔はカメラを確認する。「映像からも消えてる」 また照明が瞬いた。 一度暗くなる。 白い光が戻る。 十三段目。 四階。 存在する。 照明の明滅に合わせ、建物そのものが形を変えているようだった。 澪のスマートフォンが震えた。 続いて四人の端末も同時に鳴る。 七つの学校章。 赤く塗られているのは三つ。 七人目の出席。 校歌。 姿見。 その下へ新しい文章が表示された。 十三段目に
東棟の階段から響いた重い音は、十三度目で止まった。 どん、と最後の一音が校舎の底へ沈み、そのあとには非常ベルだけが残った。 赤い警告灯が明滅するたび、割れた鏡の破片が床の上で光る。つい先ほどまで、その一枚には透の姿が映っていた。 階段へ行くな。 死んだ透の唇は、確かにそう動いていた。「行かない」 澪が言った。 自分でも驚くほど強い声だった。 悠斗が東棟へ続く扉を見た。「でも、今の音を確認しないと――」「透が行くなって言った」「鏡に映ったものを信用するのか?」「今は、何も確認できてないまま近づく方が危ない」 美月も澪の隣へ立った。「賛成。さっきのは人が階段から落ちた音にも聞こえた。でも、本当に人なら声くらい出てもおかしくない。先にここで分かることを調べる」 奈々香は返事もしなかった。左耳に当てたガーゼを押さえ、割れた鏡を見ないよう俯いている。 朔だけは非常ベルの周期を数えていた。 やがて胸元へ固定した小型カメラを外す。「舞踊室の映像を見る」 悠斗が苛立ったように振り返った。「今?」「今だからだ。俺たちが見たものと、記録されたものが一致してるか確認する」 その言葉に、澪の胸元で手帳が重くなった。 中には、澄花の字で書かれた楽譜が挟まれている。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 その一文を、澪はまだ誰にも見せていない。 朔は床へ膝をつき、カメラの液晶を開いた。 五人が横一列に並ぶところから映像を戻す。 一往復目。 五人。 二往復目。 五人。 澪たちの記憶では、鏡の中の悠斗だけが半歩遅れた。 だが保存映像では、悠斗もほかの四人と同じ速さで動いている。「違う」 澪が画面へ顔を近づけた。「ここ。悠斗が遅れたはず」「遅れてないな」 美月も確認する。 三往復目。 現実では、鏡の中の奈々香が一人だけ立ち止まった。 映像の中では、五人全員が同じ歩調で端まで進んでいる。「私、止まってたよね」 奈々香が掠れた声を出した。「鏡の中の私だけ。みんな見たよね」「見た」 澪が答える。 美月も頷いた。 四往復目。 澪の呼吸が浅くなる。 このとき、鏡の中には六人いた。 五人の後ろを、制服姿の少女が歩いていた。 右手首には赤い組紐。 けれど、小型カメラの映像には五人しか
西棟一階へ近づくにつれ、雨音が遠くなった。 代わりに、五人の足音だけが長い廊下へ乾いて響く。 東棟よりも荒廃が進んでいるらしく、天井には幾つもの穴が開き、壁紙は湿気を吸って垂れ下がっていた。窓硝子の半分は割れ、黒い板で塞がれている。 それでも、突き当たりにある両開きの扉だけは、不自然なほど形を保っていた。 曇った金属板へ、かすれた文字が残っている。 舞踊室。「ここ……」 奈々香が足を止めた。「覚えてる」 声は小さい。 左耳には美月が当てた薄いガーゼが残っていた。出血は止まっているが、何度も耳へ指を伸ばしかけては、途中で思い直して腕を下ろしている。「八年前に来たよね」「来た」 悠斗が答えた。 迷いのない声だった。「ここの鏡が七不思議の一つだった」 朔は扉の前でしゃがみ、下部へ懐中電灯を向けた。 細い隙間から、埃の積もった床が見える。 糸や配線はない。「どんな噂だった?」 美月が悠斗へ尋ねる。 悠斗は扉の取っ手へ手を掛けながら言った。「午前零時を過ぎて、鏡の前を全員で歩く」 低い軋みとともに扉が開く。「最後の一人だけ、鏡の中に残される」 舞踊室の暗闇が現れた。「残った奴は、翌朝までに消える」 澪の背中を冷たいものが走った。 部屋は細長かった。 奥行きのある長方形で、床には古い木板が敷かれている。壁際には朽ちた手摺が残り、その上を白い黴が這っていた。 そして、左側の壁一面。 端から端まで、巨大な鏡で覆われている。 幾つもの鏡板を並べて作られたものだった。 表面はところどころ黒く曇り、細かなひびも入っている。それでも五人の姿を映すには十分だった。 澪。 朔。 美月。 悠斗。 奈々香。 五人。 鏡の中にも五人。 赤い組紐の入った袋が、澪のポケットの中で僅かに冷たくなった。「当時は何も起きなかった」 悠斗が部屋へ入りながら言った。「澄花がふざけて隠れただけだった」 澪は顔を上げた。「隠れた?」「ああ」「ここで?」「そうだ」 悠斗は当然のことのように答える。「七人で鏡の前を歩いて、最後に数えたら六人しかいなかった。奈々香が泣いて、美月が怒って。あとで澄花が裏から出てきた」「裏って、どこ」「カーテンの向こうか何かだっただろ」 澪は舞踊室を見回した。 壁際にカーテンはない